聡く生きる

誰にでも、あると思うのですね。

何をやっても上手く行かない時。

その原因は人それぞれ、

抱える課題によって、また学ぶべきことによって、

違うのですね。


おっさんは時折にご神託を戴きます。

ほら、おっさんのサイトにある「ご神託を戴く」ってやつです。

或いは卦も出してみるのですけど、

至誠の念で神霊に「教えてください」って御信託を戴くのですけど、

568 吉

998 神仏

620 如意

まあ、こんな感じの結果が出ますね。

心が曇っておりますと余りいいのはでないのですけど、

普通はいつでも似たような結果になります。


思うように生きなさいってことなんでしょうね。

神仏がついているじゃないかって。

悪くはならないよって。

そんな意味なんでしょうね。


誰だってね、魂のままに思うように力一杯に生きておりましたら良いのですね。

願いがあるならその方向で頑張っておりましたら良いのです。

ただね、それで人を犠牲にしてもいけないし、誰かを悲しませることもいけないのですね。

執着、依存、強要、嫉妬、怒り、憎しみ、

そういった感情が人に向いてしまいましても、それは上手く行かないですね。

誰かを憎めばそれは憎まれた人ではなく憎んだ人に反作用が生じるのですから、

動機から目的から何から何まで自分のため、

全て自身に収束するような生き方も決して発展はしないのですね。


社会の中にあって、自然と思うように感じるように客観的な視点で生きる。

そうしますと自らの役割を認識していなくてもね、

神仏は必ず護り導いて社会の役、神様のお役に立たせて下さる。

そうではないかと思うのです。


執着癖、依存癖、強要癖、嫉妬癖、怒り癖、という過ちとね

憎しみ合うという過ち。

それがこの世界を支配しております最も多い過ちでございましょう。

全て自己中心、自己保存、自我我欲の心から生じて参ります。


憎しみを持たないということは難しいですね。

ただね、人の不幸を願うようになってはいけませんね。

どのような悪人でも、心が捻じ曲がった魔物でもね、愚か者でも、

愛するものがあって、家族がいて、友達がいるのです。

それは誰だって同じなんです。

ただ、正義の味方の正義の部分が多少の判断の稚拙さからぶつかりあってしまう。

その判断の稚拙さはね、

自分の物差しで測ることで判断を誤っちゃうのですね。

そうして自分自身の視点で誰かを責め立ててしまいますと、

その反作用は必ず自分自身に返ってくるのですね。


増してやそれが魂の愛する人であったなら、

たとえそれを忘れていたとしましてもね、

命に惑わされてその魂の声が聞こえていなかったとしましても、

その魂の愛する人、大切な人への仕打ちは

必ず自分自身の真心で自分を裁くことになるのでしょうね。


だから怖いのですね。

感情のままに、感情に振り回されて生きることがどんな弊害を生むのか、

反作用を生じさせるのか、

自己中心、自我我欲、自己保存から生じる執着、依存、強要、嫉妬、怒り、憎しみが

どんな業を生じさせてしまうのか、

私たちは深く考えて生きなくてはいけないように思いますね。


愛別離苦、

怨憎会苦、

求不得苦、


それらがどのような意識から生じるものか、

愛するものと別れる苦しみは、

憎む人と会わなくてはいけない苦しみは、

求めるものが得られない苦しみは、

それらもやはり自己中心や自己保存、自我我欲から生じるものでありましょう。

心に地獄を生じさせて自ら苦しみを招いているのですね。


それでは上手く行く術もありませんし、

業を積み重ねてしまうだけでありましょう。


なんかごちゃごちゃになって何が書きたいのか分からなくなってきましたけど、(笑)

聡く生きる、ということ

深い深い理を知り、高い視点で生きるといいますことがね、

必ず神仏の意識と共鳴して自分自身を幸せな境遇に導いて下さるものであるということをね、

おっさんはここで主張させて戴きたいと思うのでございますよ。
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by yskfm | 2011-05-13 16:28 | 第二部、神理
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日々の生活や出来事など、斜め45度視線を傾けずに綴るブログ。思想から日常まで。♪オッサンぶろぐ♪♪  ☆手前味噌で口八丁手八丁足八本の世界をご堪能下さい。☆


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